ひろさんのココンところ

いまだ人生に惑う事ばかり

ツンドク または増大するエントロピー

自分の部屋を見るといつも考えてしまう。

 

読んでない本、聴いてないCD、手つかずのゲームの山なのだ。

いつか読む。いつか聴く。いつかやる。今買わなきゃ二度と手に入らない。そう思って毎度買っているのだが、その「いつか」は自分がその気にならないとやってこない。

分かってる。分かってはいるが、お金を出して手に入れることはなんと容易で、自分の中に取り込もうとすることはなんと難しい事か。

そして、それはどうも現代人だけの悩みではないようで。

 

宮武外骨の随筆に「骨董化した古珍書」というのがある。令和を5年も経過した今になって、この人の作品を読んでいる人が何人いるのだろうか。

とにかく、目録をみると昭和2年の作品らしい、ほぼ100年前のこの随筆の中に「ツンドク先生」という言葉が出てくる。なんと皮肉のこもった洒落た言葉ではないか。・・・いや、違うな、正直に言おう。昭和初期の言葉を新しい洒落た言葉だと思ってよく調べもせず使っていた自分に軽くショックを受けたのだ。最初にこの言葉を使い始めたのは多分大学生の頃だと思う。それまでは曲がりなりにも買った本は読んでから本棚に入れていたはずだ、そんなに金もなかったし。大学生になって悪い先輩から課題図書を読まずに読書会に出て論破してくる、という底意地の悪い遊びを教えられたせいでもある。授業の教科書も読むのが面倒だったし、英語のリーディングの授業に新潮文庫の翻訳を持っていってごまかしたりしていた。嫌な読書ならしなきゃいいのに、本だけは買って知ったかぶりしていた。

改めて「積読」をwikipediaで調べてみると、明治時代から使われ始めたこの言葉は、江戸時代からその概念自体はあったらしい。朗読・黙読・積置を三読法とする、とあるらしいが、これはさすがにおふざけがすぎる気がする。いかにも江戸時代らしいが、手に入れた本を読まない事に対する罪悪感のようなものは昔からあったのだろう。それとともに、一般人の識字率がずば抜けて高かった日本において江戸時代からすでに読書のもつ、「読みたいし、読まないといけないが読むのが辛い、面倒」というニュアンスがあったのは面白い。

世界的にも珍しいニュアンスのようで、翻訳できない世界の言葉のうちの一つとして2010年代から海外に紹介され始めた、とある。

いやはや。

骨董化、という点について触れると古本屋さんの、非常に闇の深い話になるし、大きく話が逸れるのでここでは掘り下げない事にする。

 

さて、我が家の本棚である。「ツンドク」本を手前に並べたら嫌になるくらいいっぱいある上に、確かに読んだはずの本の内容が思い出せない。もしくは、自分の記憶では400字以内にまとめられるストーリーなのに、なぜこんな分厚いんだと思う本もいっぱいある。

しかも。

最近、ケータイで青空文庫を読むようになり、電子の世界にも積み本が増えてきた。ケータイで読んだ文章は、紙以上に覚えが悪く、気がつくと同じ作品を何度も読んでしまっている。

覚えてなくて読み返している本はもはや読み終わるまで積み本と変わらない。

積み本が、増殖していく。。。

 

ただ僕はあくまでも読みたいから手に入れているので、いつか、いつかは積み本を無くしたいし、その為に、今積んである本は捨てられないのである。

あぁこの哀しきエントロピーが減少に向かう日は来るのだろうか。